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高円寺とシェアハウスのモラトリアム

こんな記事を読んだ。

いつか卒業する街、高円寺
ふむふむと思った。その通りかもしれないな。

ぼくは現在高円寺のとあるシェアハウスに住んでいる。
30人ほどが一つ屋根の下に住み、半分が日本人で半分が外国人。
このシェアハウスに限った話ではないかもしれないが、とにかく人の入れ替わりがはげしい。
ぼくは今年の3月から住みはじめ、まだ3ヶ月ほどしか経っていないが、すでに日本人の男性入居者の中では2番めの古株になっている。
(※ここで日本人に限定したのは、外国人は短期留学やワーキングホリデーで来ている人が多く、そもそも期限が決まっている人が多いからだ)
この3ヶ月間ですら、ぼくより後に入居してぼくより先に出ていってしまった人が何人もいる。
でもそれは決してこのシェアハウスの居心地が悪いからではない、と思う。
むしろみんな程よい距離間を保ちつつ、仲よくやっているとぼくは感じている。

ではなぜか。
それの答えは上の記事の『高円寺論』に通ずるところがあると思うのだ。
シェアハウスはそもそもいつか卒業すべき場所なんじゃないだろうか。
シェアハウスを選ぶ理由として「安いから」というのはよく挙げられるし、その通りだ。
でもそれだけじゃなくて、実は「さびしがり屋だから」というのも潜在的理由じゃないかと、最近ふと考えた。
周りを見たときに、シェアハウスに住む人はどこかさびしがり屋だったり“かまちょ”だったりする人間が多い。

ぼくもそうだ。
そんな人たちに、シェアハウスはすごく居心地がいいのだ。
各々いろんな理由で、いろんな経緯があってシェアハウスを選ぶ。
実家暮らしでもひとり暮らしでもない、モラトリアムなバッファーゾーン的シェアハウス暮らしで、ある者はお金を貯めて、ある者はキズを癒やし、次のステップに進んでいく。
シェアハウスはやさしい。
何びとであっても受け入れる懐の深さがある。
家族のような血生臭さも、同僚のような打算的関係性も、ない。
じゃあふつうの友だちかっていうと、それともちょっと違う。
出ていった人間同士で関係性がつづくのはおそらく稀だ。
つかず離れず、ちょっとインスタントな関係。

翻って高円寺。
高円寺は快速も停まるし、新宿まで10分だし、とても便利な場所だ。
スーパーや惣菜屋、活気あふれる商店街もある。
でも高円寺には高層ビルも高層マンションもない。
都会的に洗練されたオシャレスポットもそんなにない。
夏には阿波踊り大会が開催されちゃう。
高円寺以西に残るようなのどかな自然(吉祥寺とか三鷹とかね)はない。
高円寺以東のようなコンクリートジャングルもない。
そんな中央線のバッファーゾーン的存在。
土日は快速が通過しちゃうあたりも、絶妙にツボ。
そしてみんないつかは西日暮里だの錦糸町だの武蔵小杉だのに引っ越していくのだ。

シェアハウスも高円寺も居心地がいい。
と同時にここに慣れてしまうと抜け出せなくなってしまいそうな怖さもある。
「大学時代に戻りたい」なんてのはよく聞くセリフだけど、じゃあその人たちは永遠に大学生やってたいかっていったらそうでもないだろう。
いつか卒業しなければならない。
前に進むために、成長するために、一人前の人間になるために。
ぼくはシェアハウスや高円寺にも近いものを感じている。いつか卒業しなければならない。
さてぼくがシェアハウスを、そして高円寺を卒業するのはいつなんだろうか…。(了)

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