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アングラ・サブカル・水たばこ

「水たばこ」をご存知だろうか。
別名シーシャ(shisha)やフッカー(hookah)とも呼ばれる。
シロップ漬けにし香料でフレーバーを付けたたばこの葉を炭で熱し、その煙を水にくぐらせてから吸引する構造だ。
フレイバーは実に豊富で、ミントやカルダモンなどのスパイス系、グレープフルーツやザクロなどのフルーツ系、コーラやモヒートなどのドリンク系などよりどりみどりだ。
こうして文章で説明するだけではわかりにくいと思うので、ぜひググって写真なり動画なりをご覧いただきたい。

水たばこ(シーシャ) | JTウェブサイト

で、ぼくはこの水たばこというものをすごく気に入っている。

多いときは毎週、今でも月に1、2回はお店に足をはこんでいる。
水たばこは器具さえそろえれば自宅でも吸えるが、少々場所を取るし手間もかかるので、お店にでたのしむ人がほとんどだ。
(逆に水たばこの趣味が高じてお店を開いちゃう人もいるみたい)
料金やその他サービスはお店によって異なるが、都内だとフリードリンク付のチャージ料金が800円前後、そこに水たばこ1,000円ほど、合計2,000円もあればたのしめる店が多い。
2,000円でなにができるかというと、水たばこを吸いながらダラダラできるだけなんだけど、それが実にいい。
何も考えずにぷかぷか煙をくゆらせているだけ。
水をくぐらせるおかげでニコチンもタールも通常のたばこよりはごく少量になっているとはいえ、吸っているうちにじんわり効いてくる。
ペースを考えずにぷかぷか吸っても最低1時間は十分たのしめる。
また多くのお店ではアルコールもふくめ、香りの強くない飲食物であれば持ち込み自由となっている。
またWi-Fiボードゲームを用意しているところも多い。
ラップトップを持ち込んで水たばこを吸いながらカタカタやっている人もよく見かける。
かく言う自分も水たばこを吸いながらよくブログを書いている。
ニコチンのおかげであんまり頭がはたらかないし、作業がはかどるかっていうと必ずしもそうじゃない。
でもアングラでサブカル感あふれる水たばこ屋さんで作業していると、なんだかインスピレーションが生まれそうな気がしちゃうんだよね。
紙巻たばこはほとんど吸わなくなって2年くらい経つけど、水たばこはこの先もずっとお世話になるだろうなあと思ってるぼくです。(了)

冷凍イヤホンはじめました

イヤホンがこわれた。
買ってからまだ半年と経っていないのに。
突然右側だけ音が出なくなった。
どうしたもんかと困っていたら、同じシェアハウスに住む台湾人の女の子から
「冷凍庫に入れれば直るよ」
とありがたいアドバイスが。
いやぜってーウソだろ!
って思ったけど、彼女は自分のiPhoneの調子が悪くなるといつも同様にして直しているとのこと。やべぇよやべぇよ…。
試すのはタダだしっつーわけで、冷凍庫に入れてみた。
ビニール袋に入れて、(共用冷蔵庫なので)部屋番号と名前を書いて放置した。
ロックアイスと冷凍枝豆とイヤホンが並んでいる光景ってなかなかないと思う。
数十分後恐る恐る取り出してみると…びっくり。
電源すら入らなくなったという。
オイコラどうしてくれんだ!と抗議しても仕方がないので、新しいのを注文した。
これ。
前回のはぼくにとってはじめてのワイヤレスイヤホンだった。
ワイヤレスイヤホンの魅力については以前書いたことがあったけど、その便利さを知ると今さら有線に後戻りはできんよね。
というわけで今回は完全ワイヤレスイヤホン。
左右のイヤホンをつなぐコードすらなくなった。
この手の商品はご存知AirPodsが有名だけど、いかんせん高いし…。
翻ってこいつは3千円というお手頃価格。
定価1万円からの70%オフというのが逆に怖いけど、思い切って購入。
結果的にわりと満足している。
買ってからまだ1週間くらいだけれど。
操作性、音質、音量、装着感、デザインなどまあ及第点でしょう。
しいていうならペアリングがうまくいかなかったり、音が途切れたりすることもあるけれど、この価格だし、そこそこ聞ければいいやという期待値だったからあまり気にならない。
むしろ完全ワイヤレス設計の使い回しのよさをひしひしと実感している。
こりゃ“普通の”イヤホンには二度ともどれないな…次こそAirPodsか?
いやそんなことより、とりあえず、せめて1年くらいはもってくれよ、新しいイヤホンちゃんっ。(了)

好きなタイプはどんな人?って聞かれると

「好きなタイプはどんな人?」というありきたりな質問がある。 

ぼくも幾度となく聞かれたことがある。 

でも正直言ってどんな人が好きか口で言うのはすごく難しい。 

おそらくぼく自身が移り気というか、節操がないところがあって、グッとくる人に一貫性が見いだせなかった。 

だから今までは「やさしい人」とか「清潔感がある人」みたいに当たり障りのない答えでごまかしてきた。 

(まあ誰も別に真剣な回答なんてそもそも求めちゃいないだろうけど) 

ただ最近ふと「これだけは兼ね備えていてほしい」と相手に求めるポイントが思い浮かんだ。 

それは「好奇心が強いこと」だ。 

もっとくだけた言い方をするならば「ノリがいい」人だ。 

 

ぼくは人一倍好奇心が強いほうだ。 

新しいモノが大すきだし、ぼく以外の人間のことにすごく興味がある。 

だからいろんな場所に行きたいし、いろんな人の話を聞きたい。 

未知のものが身近にあると掘り下げたくなってしまう。 

触れるなら触ってああだこうだと試してみたい。 

だから相手にもそうであってほしい。 

知らないことや体験したことがないことでも臆せずつきあってくれる人がいい。 

たとえばぼくはAKB48だとかプロレスだとかには積極的には興味がない。 

でもつきあった人がそれらのファンだったらもっと知りたくなると思う。 

その人にそれらのよさについて説いてほしい。 

それはその人と同じものを好きになりたい、というよりは、未知のものを知るいい機会だと思うからだ。 

相手が「やってみない?」とか「見に行かない?」と誘うながらよろこんで挑戦したいと思う。 

 

一緒に街を歩いていていておもしろそうな店を見つけたら、ごちゃごちゃ考えずに中に入りたい。 

レストランに行ってめずらしい料理があったら思い切って注文したい。 

試してみてがっかりする結果になったとしても、それもふくめてたのしめる人だと素敵だと思う。 

ぼくもそうありたいと思うし、相手もそうであってほしい。 

過去にデートをした相手を思い浮かべながら、そんなことを考えた。(了) 

大丈夫、ぼくらには鳥貴族があるから

鳥貴族に行ったことはあるだろうか。
実のところぼくは大ファンで、月に2回は足を運んでいる。
学生時代にぜひ出会いたいところだったが、ぼくが学生時代をすごした函館や宇都宮には鳥貴族はなかった。
 
駅前や歓楽街に鳥貴族を見つけたときの安心感といったらない。
もちろんもっと旨い店や気の利いた店は山ほどある。
世界有数の食どころTOKYOで鳥貴族を選ぶのは、なんとなくもったいない気持ちも、ある。
だが鳥貴族の強みとは、安くて”ふつうに”旨いという「安パイ感」なのだ。
鳥貴族が近くにあるだけで「他がしっくりこなくてもとりあえずここがある」というこころの拠り所になる。
例えるならば海外旅行先のMcDonaldだ。
旅行先ならではのローカルフードや、安くて旨い店も探せばあるにちがいない。
だが完全アウェイの不得手な場所だ、失敗のリスクも伴う。
それはそれで冒険も旅行の醍醐味だうけども…。
そんなとき最後の砦にMcDonaldがある。
McDonaldはある意味旅行中の食事問題解決のための保険のようなものだ。
翻って鳥貴族は飲み会の場所問題解決のための保険だ。
 
必ずしもベストな選択ではない。
しかし圧倒的な安パイ感。
飲み会の場所が決まらずグダグダとした雰囲気になったそんなとき、目に飛び込んでくる鳥貴族の看板にはイエローの後光が差しているものだ。いやそれは常時か。
鳥貴族は裏切らない。
鳥貴族は外さない。
ありがとう鳥貴族。
大好きです、鳥貴族。(了)
 
追記:そもそもなぜ鳥貴族について書こうと思ったかというと、鳥貴族値上げのニュースを目にしたからだった。

「おのれ裏切りよったな鳥貴族っ」って思ったけど¥298だって。安っ。
まだまだ付いてきます、鳥貴族。

責任転嫁社会がしやすいこの世の中だけど

日本は責任転嫁がしやすい社会だと思う。
自分の思い通りにならないことを他人のせいにしやすい。
その背景に、基本的に他人に対する期待値が高いということがあるだろう。
そしてその期待値に対してみんな応えていこうね、という雰囲気が形成されている。
 
いち人間として自立して生きていくにはそれじゃダメだ。
ぼくは最近そのことを、自分ごととしてひしひしと感じている。
たとえば電車が遅延して会社に遅れたこと、ほしい服のサイズが売り切れだったこと。
その電車に乗ろうと思ったのも、その服をほしいと思ったのも他でもないぼくなのだ。
ぼく自身の決断なのだ。
ぼくが選びぼくが決断した。
そういう意味において「責任」は他でもないぼくにある。
もちろんぼくが「悪い」わけではない。
したがって自責の念を抱く必要もない。
ただぼくが決断したことであり、その結果なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
生きることは選択と決断の連続である。
それまでの人生の歩みによって選択の幅は変化する。
決断する上での判断材料も蓄積されていく。
自分の頭でかんがえ、選び、決断をくり返していかなければならない。
それが大人になるということだろう。
 
子どものときお店の商品を誤って壊してしまったとき、友だちとケンカをして相手にケガを負わせてしまったとき、親は一緒に頭を下げてくれた。
責任の一部を負ってくれた。
同時に責任を取るということの片鱗を示してくれた。
 
そしてぼくは今大人になった。
もう何も言い訳はできない。
それに気づいたとき生きることはタフだなと思った。
でも生きることはそもそもそういうことなのだと思うから。(了)