人災と天災

生きていると嫌なことはたくさんある。

その多くが人間関係から生じるものだったりする。

理不尽な言葉や不条理な場面に直面することもある。

その度にぼくは無力感や、やり場のない怒りを感じる。

ずっと昔に受けた屈辱が、未だに思い出すたび身を切るようにぼくを苦しめることもある。怒りに身を震わせることもある。

 

しかし最近ぼくはこう考えるようになった。

人間関係から生まれる苦しみ、いわば「人災」は、ぼく自身がどうにかコントロールしようと思うからいつまでも苦しいのではないか。

人災を自分自身ではどうにもならないもの、「天災」と同様にとらえればあきらめもつくのではないだろうか。

地震で家が壊れたとして、台風で車が流れたとして、むろん悲しい出来事ではあるが、地震や台風に対していつまでも真剣に怒りを感じる人は多くないだろう。

それは地震や台風が基本的に自分の力ではコントロールしようがないものというあきらめがあるから。

 

人間関係も同じじゃないだろうか。

同じ人間だからといって他人をどうにかできる期待があるから、そうじゃないときにしんどい。

反省してほしいとか、謝ってほしいとか、悔い改めてほしとか。はたまた不幸になってほしいなんて、無理な話で。

 

天災に例えたのにはもうひとつポイントがある。

「完全に避けることはできないが、予測し備えることができる」ということだ。

地震も台風も絶対に遭わないことは難しい、この地球に住んでいる限り。

けれど地震が起きやすい地域や台風が通る道はデータとして残っている。

それを見てその地域を避けて住むことや、有事に備えることはできる。

人災も同じではないだろうか。

渡世をつづけるに人とのかかわりは避けることはできない。

けれど経験から(その”経験”を得るためのプロセスもまた困難をともなうのだけれど)居心地のいい距離感や人やコミュニティを選ぶことはできる。

最近ではセーフティネットとして複数のコミュニティに属することもできる。

 

そんなふうに人災を天災と同じような視点で捉えるように意識してから、ぼくはすこし楽になった。

過去の嫌な出来事が浄化されていくのを感じた。

みぞおちの辺りに淡い悲しみの澱のようなものを残して。

 

話を聞いてほしがっている時点で二流

今渋谷のTurn Tableっていうホステルのバースペースでこの文章を書いているんだけど、ここ、とてもよい。

Trun Tableのことはこの記事を見て知った。

徳島のアンテナショップ的なやーつ。

未だかつてこんなに洗練され、くつろげるアンテナショップを見たことがない。

アンテナショップ2.0って感じ。

 

閑話休題

 

ぼくは他人の話を聞くのがうまいと自負している。

適当に相槌を打ちながら、ほどよく大げさなリアクションをとり、もっと話したそうなポイントを敢えて質問して引き出し、ちょっとだけイジり要素をくわえつつ会話を促す。

 

相槌:質問:イジり=7:2:1

 

が相手の会話を引き出すコツだと思う。

 

ぼくは元来自分語りよりは誰かの話を聞く方が好きというのもあって、ごく自然に上手な聞き役を徹してきた。

卒論調査でぼくが一番好きだったのは聞き取り調査だった。その代り執筆の方はてんでダメだったけれど。

居酒屋のカウンター席で隣の席になったおじさんや、Tinderとかではじめて会う人とも比較的なめらかに会話を広げられてきた。

相手が気持ちよくつらつらと話し続けるのを見ているのが好きだった。

そしてそんな「聞き役に徹している自分」も嫌いじゃなかった。

聞き分けがよくて、控えめで、盛り上げ上手な人間だと思っていた。

 

しかし社会人になっていろいろな方と会う中で、ぼくが話を掘り下げようとしてもあまりうまくいかないケースが増えてきた。

ぼくがいつものように聞き役に回ろうとしてもあまり話を広げる素振りが見られなかったり、さしておもしろくもないような態度をとったり、ともすれば「いいよ別にそんなに根掘り葉掘り聞こうとしなくて」と話を冷淡に話を遮ったりする人がいることに気づいた。

 

最初のうちはとまどった。

「せっかく会って話しているのにどうしてそんな素っ気ない態度をとるんだろう」

と傷ついたし、イラ立ったし、自分が不当な扱いを受けている気すらした。

 

でもしばらくして気づき始めたんだよね、彼らはぼくの上っ面な聞き方に気づいてたんだって。

ぼくの対応はある意味で相手の話や人間性を軽んじていたのかも知れない。

 

言い訳するではないが、ぼくとしては会話のプロレスがしたかっただけなんだ。

そこそこのところでいなして、ひょいひょいと付かず離れずの会話をして、たのしかったね、それじゃあまたね、で〆たかっただけなのだ。

ただ心の底に「みんなどうぜ自分語りしたいだけだよね」っていう斜に構えた気持ちはあった。

彼らにはそこんとこを見破られたんだなと思う。

 

ふり返ってみて彼ら―会話プロレスクラッシャーら―は往々にして”デキる人”だった。

したたかで、抜け目がなくて、容量がいい、経験値豊富な人であることがありありとわかった。

 

気づいたんだよね。誰かに話を聞いてもらってよろこんでいるような人間は二流なんだって。

すごーく意地悪な言い方をするけど、ぼくに話を聞いてもらって気持ちよくなってる人はその程度の人間なんだと思う。

 

もちろん誰しも他人に話を聞いてもらえればうれしい。

でもそれで承認欲求を満たしているような人間は大した人間じゃない。

デキる人たちは他人の毀誉褒貶に一喜一憂しない、太くしなやかで根の張った価値観を持っている。

ぼくみたいな人間の薄っぺらい相槌なんか求めちゃいないんだよね。恥ずかしい話です。

 

ここ一年で、ぼく自身の価値観が大きく転換しつつあるのを感じる。

ちょっとは人間に深みが出てきたのかなあ、成熟してきたのかなあ。

未熟な自分を肯定しつつ、成長を続けていきたいなぁ。(了)

Tinderに石原さとみはいない

久しぶりにスマホでブログを書いてみる。

 

最近Twitterでつぶやく頻度が増えて、頭に思い浮かんだことを細切れにであれ放出しているからか、まとまった文章を書く気が起きなかった。

でもTwitterのおかげで最近毎日際限なくおもしろい記事と出会えるようになって、インプットの量も圧倒的に増えたように思う。

良質なオンライン記事を貪欲に読み漁ってる。

するとぼくも何だか発信したくなって来る。

というわけで書きます。


新しい人と会うときに、それもランダムな人と会うときに得られる楽しさってだいたい予測つかない?

っていうかぼくはついちゃって、初対面の人とする会話なんてもうほとんどテンプレートだよね。

話して数分で、その人とどの程度波長が合うかそこそこつかめちゃって。

そうするともう興醒めしちゃう。

このところ新しい人とTinderを通じて会うモチベーションが下がってるのを感じる。


閑話休題


この6月からオンラインサロンというやつに入った。

幻冬社の鬼才編集者、箕輪厚介氏が主宰するその名も箕輪編集室。

そんでもって先日みの編の新歓が渋谷のCAMPFIREであったから参加してきたわけです。

まあたのしかった。

あいにく箕輪さん自身はいらっしゃらなかったんだけど、みの編のイベントチームが企画運営をやってくれて、みの編のいろはを丁寧にプレゼンしてくれた。

 

そのあと新旧メンバーみんなで立食形式で懇親会をした。

その時交わした会話がとても心地よかった、というか楽だった。

なんつーか物事に対する熱量とかモチベーションがお互いに近いのが話しててありありとわかった。

例えば落合陽一とか見城徹とかリバ邸とかCAMPFIREとか、そういう単語を出しても説明なしに会話が進む、そのコモンセンスの共有ってすごく心地よくて。

コミュニティのよさってこういうことだよなと実感した。


もちろん恋愛的指向性を持つ出会い、つまりデート相手に必ずしもぼくと同じ趣味や関心分野を持ってほしいわけじゃないよ。

でも「はじめましてーTinderのガクですー」から始まる出会いに期待できるものってそんなにないよね。

当たり前かそんなの。


Showroomの前田さんが石原さとみさんとお付き合いしてるのを聞いて思ったのよ。

結局Tinder的出会いの向こう側に石原さとみはいない。

それは芸能人が出会い系やってるわけがないからとかそういう意味じゃなく。

 

相手から寄ってきてもらえるような、興味を持たれるような存在でありたい。

話を聞かれたい人間になりたいと!

ブログ書いて、あとシーシャ屋やるって目標あるからそれに向かって動いて、世の中に自分の商品を、自分自身をかましてかないと、右スワイプの向こうに奇跡はないぞと。

 

青くせぇなー

嫉妬すること=やりたいこと

こんな動画を観た


メンタリストDaiGo氏、今は生主やってるのな。

で、彼が心理学の観点から「嫉妬」という感情について解説してくれてる。

 

端的に言うと「嫉妬」とは「自分がほしいもの」に対して生じる感情であると。

「自分が本当にやりたいことが何かわからない」っていうのは現代若者の悩みあるあるだけど、嫉妬を感じたモノ・コト・ヒトがその人が心からほしい・したい・なりたい対象である、と。

そう考えるとすっごくシンプルだよね。

 

最近ぼくが嫉妬した話しまーす。

この前ひょんなきっかけでシーシャ(水タバコ)関係のとある集まりに行った。

その会場となった場所がすごく素敵で、コワーキングスペース的なところで。

運営してるのが2つくらい年下のTくんという人で、彼のことはSNSを通じて知ってはいたから「おもしろそうな人だなあ」とは思っていた。

実際会ってみたらやっぱりナイスガイだった。

ぱっと見おっとりした雰囲気なのに、実は10代の頃から起業してるアツい一面も持ってて、もうね…。

 

そしてその場に集まってる人がまあchillの極みだったんだよね。

学生時代から起業してる人とか、自他ともに認めるシーシャづくりの天才でいろんなシーシャ屋のコンサルしてる人とか、カクテル哲学にアツい学生フリーランスバーテンダーとか…謎い。

いい場所・いい人・いいシーシャ、三拍子揃ったサイコーの夜かよーって。

 

すごーくたのしかったんだけど、同時に「くそー!」とも思った。

普段年齢とか気にしないけどさ、それでもやっぱりぼくより年下の、ともすれば学生なのに起業して社会に一石を投じてる姿を見ると「ぼくは一体なにしてんだろ…」ってなりますよ。

 

だからさ、ぼくがやりたいことって

イケてる場所でイケてる人たちとイケてることをやること

なんだろうなって。

 

だから今そんな場所をつくろうと作戦を練ってるよ。

近日中に作戦をお披露目するつもりだから、待っててくれよな!(了)

AIが発達した未来の妄想

AIだのシンギュラリティだのというフレーズを耳にしない日はない昨今である。

落合陽一とかホリエモンとかの書籍を読み、テクニカルなことには門外漢のぼくだけど、AIが発達した未来に想いを馳せることがある。

 
AIが人間を越すのは時間の問題だろう。

シンギュラリティというやつだ。

シンギュラリティ(読み)しんぎゅらりてぃ(英語表記)Singularity

人工知能(AI)が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)。または、それがもたらす世界の変化のことをいう。米国の未来学者レイ・カーツワイルが、2005年に出した“The Singularity Is Near”(邦題『ポスト・ヒューマン誕生』)でその概念を提唱し、徐々に知られるようになった。

シンギュラリティ(しんぎゅらりてぃ)とは - コトバンク

きっとAIと人間の境目も極めて曖昧なものとなり、いつかその差も消滅するだろう。

人間がAIを内包し、AIもまた人間を内包する。

 

その時現在の人間が待つ「個性」だとか「唯一性」もまた、消失する。

それは地球がひとつの有機生命体となることを意味するのではないかとぼくは想像する。

 

ゆくゆくは時間性というものすら消滅するのではないか。

少なくとも時間軸という概念はなくなるように思う。

過去は忘れられるから過去なのであり、より抽象度が高い状態で固定され、完全な再現性を持った時、それは過去でなくなる。

未来は未知性と不確定性があるから未来なのであり、完璧に予測できた瞬間それは未来ではなく現実となる。

過去と現在と未来が同時性を持った時、時間という概念すらも消滅する。

これってラプラスの悪魔というやつかな?否定されてるの?

ラプラスの魔Laplace's demon】

 自然界のあらゆる力と宇宙全体のある時点における状態を完全に把握することができ,かつ,これらの素材を完璧に解析する能力をもった仮想的な知的存在.このような(demon)にとっては宇宙の中に何一つとして不確実なものはなく,未来のことを完璧な形で予見することが可能となる.

ラプラスの魔とは - コトバンク

その時宇宙はどうなるか

宇宙すらも一個の生命体のような存在になるのか。

そしてその宇宙が永遠に続く限りまたその生命も存在するのだろうか?

 

もしそうであるならば死は恐れるべきものでなくなる。

なぜなら誰しもが蘇るから

生命活動を終えたぼくの身体は火葬され、骨壷に入れ埋葬されるだろう。

そしていつかは風化し土に還るか海の藻屑となるだろう。分子レベルまで分解された一部は大気となって地球を巡るかもしれない。

母なる大地に還ることは、脈々と繰り替えされてきた生命の営みに身を委ね、古の記憶たちの一部に組み込まれることだ。

地球が一個の生命体となったその瞬間に、我々はまたその一部として血となり肉となり永遠に蘇る。

 

とかそんなことを、シーシャを吸いながら考えた。

中二病みたいだけど、そんなふうに思うんだぼくは。(了)

人類の未来―AI、経済、民主主義 (NHK出版新書 513)

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